FAR FROM HEAVEN
エデンより彼方に
エデンより彼方に |
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(初出『エスクァイア』2003年8月号)
『エデンより彼方に』は奇跡のような映画だ。こんな映画を作ろうと考えるだけでもすごいが、それが実現したというのはさらに驚くべきことである。これは本来あり得ざる映画だ。今の時代にはこんなメロドラマは成立し得ない。そこで諦めなかったのが『エデンより彼方に』だ。この世界には存在し得ないなら、それが成立する世界そのものを作ってやればいい。あり得ざる発想だという意味である。
物語はシンプルだ。主婦キャシーはアメリカ郊外の小都市で何不自由ない暮らしをおくっている。一流企業の重役である夫は地域社会の柱石であり、家庭では二人の子供に恵まれている。だが、夫の思いがけない秘密から、一家は崩壊の危機に陥ってしまう。キャシーの救いは若い黒人庭師との交流にある。だが、異なる世界に住む二人の関係を、保守的な町の人々は断罪せずにおかない。キャシーの上にはあらゆる不幸がふりかかってくるのだ。この単純なお涙頂戴映画を成立させるための手順たるや、頭が痛くなりそうである。
まずそもそも、この映画にはオリジナルが存在する。ダグラス・サークの1955年作品『天はすべてを許し給う』である。サーク流メロドラマのひとつの頂点とされるこの作品では、ジェーン・ワイマン扮する未亡人が若い庭師(ロック・ハドソン)と恋に落ちる。だが、周囲の人々の無理解に二人は傷つけられる。息子と娘すら、自分たちの体面だけをおもんばかって二人の結婚に反対するのだ。メロドラマでは恋する二人はさまざまな障害によって引き裂かれねばならない。そして55年には年の差だけで障害として十分だった。だが時代は変わる。73年にライナー・ヴェルナー・ファスビンダーがこの映画をリメイクしたときには、ロック・ハドソンの庭師はアフリカから来た外国人労働者の黒人に変えられた。黒人との人種間恋愛によってはじめて周囲から白眼視される条件が生まれたのだ。ファスビンダー版では主人公もジェーン・ワイマンから太った醜女ブリギッテ・ミラへと変えられ、愛の不毛はさらに強烈になる。
トッド・ヘインズによる今回の映画化はファスビンダー版につづく二度目のリメイクである。今回もファスビンダー版を踏襲して庭師役は黒人になっている。それだけではない。ハリウッドでもっとも有名なクローゼット・ホモセクシュアルだったロック・ハドソンへのオマージュとなる仕掛けまで施されている。ゲイの聖典である『天はすべてを許し給う』にはふさわしかろう。だが、それだけではやはり足りない。今の時代にメロドラマを生み出す障害となるにはまだ不足なのである。
そこでトッド・ヘインズが考えたのは奇想天外な手段だった。それが50年代においてしかメロドラマとして成立しないのであれば、50年代をそのまま再現してやればいい。『エデンより彼方に』ではすべて画面から演技まで、すべてを50年代のダグラス・サーク映画として再現している。コンピュータ補正でテクニカラーの色調を再現し、ダグラス・サークを模した大仰な音楽によってドラマを煽りたて、当時そのものの衣装をデザインしなおし、そしてキッチュすれすれに大袈裟な演技をつけてみせる。普段は抑えた演技を得意にするジュリアン・ムーアがメソッドではない「見せる」演技をやってみせるのだ。
すべてがまがいものである。周到な計算と細部までの徹底したこだわりによって作りだされたまがいものだ。ちょうどジュリアン・ムーアがつけているハリウッド・ブラのように。だが、ありえざる胸のかたちを人工的に作りだすハリウッド・ブラは、実際には50年代からまがいものだった。50年代映画に描かれた理想の家庭はそれ自体が完全なフェイクだったのだ。ヘインズ版はいわば二重のフェイクである。ヘインズはリアリズムに徹底して背を向け、完璧なまがいものを作りあげる。だがサークのメロドラマも架空の世界に立脚していたのならば、そこになんの違いはあるだろう? 映画は偽物かもしれない。だが感動は本物なのだ。
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